亀山城は、城の本丸、二の丸のあった弁天山の形が亀に似ているところから名づけられた。沼城ともいう、小学校の所在地に西の丸、楢部に出丸があり、これらを総称して亀山城と呼んだ。戦国時代中山備中守信正によって築城され、宇喜多直家が永禄2年(1559年)浦上宗景よりこの城を賜り新庄山城より移った。以来直家の壮年時代活躍の拠点となった城跡である。天正元年(1573年)岡山城に移るまで14年間在城した。慶長6年(1601年)春宇喜多氏にかわって岡山城主となった小早川秀秋によって廃城となり、亀山城の中心櫓(天王)は岡山城表書院の段の大納戸櫓に、城門は秀秋の家老稲葉内匠頭本邸の表門に移築された。
亀山城(沼城)物語
永禄2年(1559)正月、年賀に参上した宇喜多直家は、主君浦上宗景から亀山城主中山備中守に謀反の風聞があるので、誅罰せよとの命令を受けて愕然とする。中山備中守は、妻奈美の実の父である。自分が舅を成敗せねばならぬとは、世はまさに戦国時代、直家は断腸の思いで引き受ける。直家は、民情視察と称して農耕地を巡り、さらに馬を駆けらせて山野に入り、鹿や猪を追う狩猟の日々が多くなった。亀山城近くの茶園畑に小さな茶亭も造作して、狩猟の獲物で舅を接待する回数も重なった。永禄2年の晩秋、直家は、亀山城中で酒宴を開くので泊りがけで遊びに来られたいと、中山備中守より招待を受けた。酒宴もようやく終りに近づき中山備中守が酔って寝所へ入ろうとした時やにわに抜刀して斬り伏せ、城外に待たせた家臣と共に鬨の声を挙げて城中に乱入し亀山城を制した。実父が殺害されたことを新庄山城で聞いた妻奈美は、直家の所業を恨み、戦国の女らしく二人の女児を残して自害した。戦国時代は弱肉強食の時代である。直家は、主君浦上宗景より亀山城を賜り新庄山城から移って以後14年間、直家壮年時代の居城とした。永禄9年(1566)備前の国津高郡下土井村にいた絶世の美女お福は、宇喜多家から差し向けられた玉の輿に乗って亀山城へ嫁いで来た。ときに直家38才の早春である。歳月は7年を経て、天正元年正月14日城中で玉のような男の子が生れた。直家はその子に自分の幼名「八郎」を与え、宇喜多の家が八の字のように末広がりに繁栄することを神に祈った。後の備前、美作57万4千石の大、大名そして豊臣家の五大老と破格の出世をし関ヶ原の戦いでは衆寡敵せず、徳川方に敗れ、八丈島へ流刑になった悲運の武将宇喜多中納言秀家の誕生である。そしてこの年の秋、直家父子は岡山城へ移るのである。天正10年(1582)6月4日備中高松城攻略に成功した羽柴秀吉は、一刻も早く2万の大軍を京へかえさなければならないと、心ははやっていた。梅雨は前線を伴って激しく吹き荒れ、吉井川は氾濫し大軍の足を止めた。秀吉は天を恨みながら亀山城に旅装を解いた。そこにはかいがいしく世話をするお福の姿があった。秀吉はお福の世話で鋭気を養いながらも、逆臣明智光秀を討つ軍議を怠らない。東の空に朝日が輝いたのは8日だった。秀吉の突進が始まる。亀山城から姫路まで22里、わずか一昼夜で駆け抜けた鬼神のような進撃である。天正10年6月17日信長の弔い合戦で勝利した秀吉の中国大返し外伝である。
秀家生誕地
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